似顔絵の話題や運営・雑談

諷刺コンテンツとしての似顔絵:ナンシー関から吉田潮、マツコデラックスまで

マツコに襲い掛かるお里が知れる人

さて、マツコデラックスさんに粘着しているN国の人が話題ですが…。

まるで総〇屋とかヤ○ザですね。反社系の人なの?政治家はその手の接触が多いとも聞きますが、ユーチューブ使ったりは令和や平成時代の新しさです。でもやっていることは古来からあるまさにそれ。ワンイシューで見事なパフォーマンスだの心理学的にすごいとか褒める人もどうかしてるわ。昔からある手口じゃないですか。

さらに昔ながらの言い方をすればお里が知れるというもの。

というのは、まさに私もお里が知れる!

私、参議院選挙、N国入れてしまいました。もちろんふざけて!(だって他の政党の公約は見れば見るほど眩暈がするしN国は絶対当選しないだろうから、捨て白票かわりに。けど、そういう考え方の人も多かったんだろうな。だから、当選しちゃって、アタマおか〇い人が少しでも権力握ったらこういう事になることが分かった)だからマツコの言ってることは正しいのだ。

あんなのに関わってマツコのエスプリの系譜が絶たれてほしくない。今後、マツコに限らずイケてる批判精神がDQN怖さに自粛する、ということは多いにありえます(戦前そうだった)

ふざけて投票なんてするもんじゃないよな。大反省やな。二度と変なのには投票せんぞ。本当にすいません…。考えなしでした。

マツコとナンシー関の共通点

マツコの系譜、と書いたのは、マツコの突き抜けたリアル(現実的)なサブカル感覚、実は脈々とした系譜がある。

遡ればある人物に到達する。その名はナンシー関。似顔絵イラスト作家である。最近はその名を聞くことも少なくなったが、芸能人の似顔絵を消しゴムハンコにした人。加えてコラムニスト、テレビ評論家である。

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ナンシー関さんの偉業に最近惹かれて読んでいます。

マツコとナンシー関との関係については、下記のコラムが良い。

マツコは、ひとの容貌の美醜のみをことさらに問題視するメディアの価値観を、男性優位社会に女性を飲み込むための武器だとも指摘するのである。「女のくせに生意気」「でも美人だから大目に見る」というわけだ。異形であることは、その〈美〉本位制の価値観から逸脱するために自ら選んだ闘いの道具でもあるのだろう。大げさに言えば『世迷いごと』は、価値観の相対化によってメディアに飼いならされた観客の目を覚まさせる戦略の書なのだった。

と秀逸な一文。(似顔絵イラストと美醜、ルッキズムについてはまた延々と考えたい)

従来の視点は顔の容姿がキレイかそうでないか、カッコいいか良くないかの単純な二元論、反知性的な狭い視点だった。

しかし、ナンシーは複眼的であった。美人といわれる女優を茶化し、崇められているヒーローヒロインをこき下ろす。ナンシーはテレビ番組、芸能人とマスコミを批評するコラムを執筆すると共に芸能人、有名人を似顔絵イラストハンコを作成し、発表した。単なる批判ではなく、ユーモアと愛のある視点で茶化して人々を魅了した。

彼女の視点とマツコの視点がまさに被り、ベクトルが一致している。

似顔絵はコンテンツか

さて、ナンシー関が似顔絵師であるかは論の別れるところだろう。

似顔絵イラストを描く人が似顔絵師であるとは限らないからである。

ややこしい論ですが…。私はある境界線を定義したい。

個人の食べ物としての似顔絵イラストを描くか
メディアコンテンツとしての似顔絵イラストを描くか

であるかの違いであると思う。

似顔絵イラストとはコンテンツかどうか。似顔絵師がCtoC(お客様から請け負う直接的な受注、もちろん席描き含む)である場合、コンテンツではない。

コンテンツ、コンテンツ、と世の中に単語は溢れてますが、この言語の定義は曖昧です。

コンテンツとは、「中身」のこと。英語の関連語彙としては、コンテナの中身がコンテントcontentである。 デジタル‐、映像‐、商業‐、素人‐、などといった複合語がある。いわゆる「メディア」の中身の、文字列・音・動画などのことで、それらの内容である著作物を指すことも多い。ウィキペディア

「何か作ったもの」ではありますが、そのキーワードは「メッセージ」です。

マクルーハンの

メディアはメッセージである

とは有名な言葉ですが、コンテンツと言われるものの中には稚拙であれ高度であれ、必ず対人へのメッセージ(文脈)があります。

メディア(昨今ではWEB)で人々が消費する、文章であり画像(写真・イラスト等)であり動画です。Twitterの発言ですら実はコンテンツです。コンテンツは以前はテレビや雑誌、映画などの作成者が庶民に一方的に発するものでした。いまやインターネットとSNSのおかげで一般庶民が「コンテンツ」を発信する立場になったのです。

似顔絵はコンテンツか

以前、似顔絵イラストは例えるならタコヤキ&ホットケーキ説を延々と述べましたが、

似顔絵師向けのビジネス書?と珈琲館のホットケーキの話(長文)

直接受注する似顔絵イラストは顧客に提供する飲食店のようなもの。

消費するCtoCのオーダーメイドである限り、それは「コンテンツ」よりも「食べ物」に近くなってきます。たいていの似顔絵師の制作物は食べ物に近いと私は考えます。

おおいに異論はあるでしょう。自分の作るものは「食べ物」ではなく「芸術」であると信じたいクリエイターは多いので。。とはいえ、自分の作りたいものでなく、顧客の欲しいものを作る傾向が強い世界であることは確かです。

ほぼオールオーダーである似顔絵師の仕事には、客の主観的な好みが多いに反映されます。批判精神やメッセージ文脈は入りこむことが難しいのです。

カリカチュアという似顔絵イラストの潮流もありますが、それは従来の「諷刺」ではなく、「誇張」が全面に出ているものです。第三者の目から見る自分の容姿への客観性とおかしみ、という概念をもたらしたことが画期的で新しいのです。

哀しいことに、CtoCである場合、一般庶民には客観性とシニカルユーモアは浸透しきれない。(私自身も自分の顔をそっくりに描かれたりシワが多いとかなりの確率で怒ります(笑))顔を面白く描きすぎると立腹する客が一定数いる、というリスク。カリカチュアイラストレーターが必ず直面する現実。カバーするには技術的に圧倒的に上手い必要がある。達者な似顔絵師さんほど誇張が数段に上手いそこに理由があります。ヘタな人が誇張似顔絵イラストを描いたら、対象者への単なる誹謗中傷になってしまうので。

人はなぜ似姿を残すのか 似顔絵の系譜 ルーヴル美術館展

さて、だからこそ、諷刺似顔絵イラストは対面やCtoCでは100%発揮しきれず、雑誌、新聞などの仲介者、媒体者のいる「メディア」で存在感を増すのです。

ナンシー関の似顔絵は諷刺コンテンツ

ナンシー関さんは諷刺に次ぐ諷刺の極みであった。だからこそ、彼女の作るものはコンテンツであり、食べ物ではなかった。

本は各界の人がナンシーさんについて評してますが、時に「似ていない」とはっきり述べられています。

有名似顔絵師の作品を「似てない」と述べることはありえないはずです。しかし、ナンシー関さんの絵に関してはそれはタブーではないのです。

「似ている」ことが商業似顔絵イラストの第一条件であり(客観的に似てなくてひたすら可愛いだけでも客にとってこれがアタシ、であればまさに「似ている」につきる)価格をつけるにあたり不可欠なものです。

しかし、ナンシー関さんの絵にとっては「似ている」は第一条件ではない。なぜなら彼女の絵は「コンテンツ」だからです。対象者その人だと分かればいい。「似る」よりも諧謔のエッセンスが重要なのです。

近いところでいえば、ドラマが流行るとTwitterで「○○絵」というイラストがどんどんUPされます。似顔絵師的に言うと、それらは似てないものが大半です。しかし、大衆のにとってのTwitter絵には「似てる」「似てない」は関係ない。ドラマの重要なシーンの臨場感とキャラが立っている様を魅力的に表現しているコンテンツであること、魅力的であるかどうか、時流を捉えているか、今一番旬なタイミングでUPされているか、が重要です。

記号である、と言ったらいいでしょうか。(コミックも絵がキレイであることよりキャラ立ちの記号であることが重要視される)

文脈やメッセージをあらわす魅力的な記号であることが 似顔絵=コンテンツである境界線ではないか。

CtoC商用である場合には命がけで達成すべし「似ている」がコンテンツである場合は必須ではないのです。その人であると分かる程度でいい。それよりは文脈、思想、諷刺と諧謔が重要なのです。そこが誇張カリカチュアとは違う根源的なバイヤスです。誇張マテリアル、画風が諷刺であり、コンテンツであるとは限りません。(なので圧倒的下手さでもまさに”コンテンツ”である場合がある)

諷刺であることがコンテンツであり、ナンシー関さんの似顔絵イラストに明らかに存在したものです。

吉田潮さんのコラムと似顔絵イラスト

私が雑誌「週刊新潮」で楽しみにしているのは吉川潮さんのコラムです。

テレビドラマの批評が主ですが、かなり辛辣です。しかし面白く、毎回読んでしまうのは、吉田さんの描いた似顔絵イラスト。はっきり言って、どの登場人物も似てない絵なんですが、これが良い。

描かれた顔立ちは似てないんですが、登場人物の性格や運命が顔全体から発していて、ものすごく意地悪くて面白い。

吉田潮さんとナンシー関さんはかつてタッグを組んでコンテンツを作っておられた。それだけに吉田潮さんの作る文章と絵は、ナンシーさんとの融和性が高い。近年は、こうした諷刺的なイラストを描く人が少なく(澤井健さんも上手いが諷刺という点では吉田さんに軍配があると思う)まさに系譜、正当な相続者であるともいえます。

ただ、吉田さんは文章がうますぎるので、文章がセットじゃないとコンテンツとして成立しきれない。そこがナンシーさんとの違いか。

圧倒的存在感のナンシー関の似顔絵ハンコ

似顔絵コンテンツとしての単体の迫力は、ナンシー関さんならでは。

本人とあまり似ていないこともある(もちろん似ているものも多いが、さほど誇張しないノーマル画風)似顔絵ハンコ、それも白黒で色がない!コンテンツの強さはいまだに追従する者がいないのではないか。諷刺似顔絵イラストの神髄ここにあり。

ナンシー関が描かない絵もナンシーたりうる

ナンシー関さんのすごいところは、ナンシーさんが書いたものじゃない似顔絵イラストも、ナンシーコンテンツとしてしまうところ。

「ナンシー関のスケッチアカデミー」という本がすごい

この本はかつてカタログハウスの「通販生活」に連載されていた読者投稿コーナーをまとめたものである。資料を一切見ずに「人間の記憶」だけでどれだけ絵を描けるか、という試みを募集したもの。

これが捧腹絶倒どころではない。

レビューを見ていただきたいがレビューも相当に面白い。ナンシーのエスプリが読者に感染したのだ。

読んだら気分がはれた、療養中の人に送るにぴったり!、悲しいときに、ストレス発散…。もちろん私も更年期の地獄の暗闇がこの本を読んでいる間、晴れ晴れとヒイヒイ息を涸らして笑った。

なんか、そこらの下手な自己啓発書を難なくしのぐエネルギーが感じられるだろう。ナンシー関の「記憶スケッチアカデミー」は世界を救うのではないかと思う。日韓がどうのとかキリキリしているのも解消されるのではないかと思われる。

どの絵もナンシーさんが書いたものではない。投稿された素人のものである。が、彼女が監修して、企画することで、ナンシー関というメディア(ナンシーさんの存在そのものこそメディアであろう)のイラストと化したのだ。

通常なら素人の書いた素人の下手な絵、と一蹴されるものばかりである。ナンシーの魔法のバイアスにかかると、どの絵もキラキラと知性と諷刺が輝きだし、一級のコンテンツと化すのだ。

諷刺コンテンツは世界を変える

諷刺は絶望を笑いに変えるユーモアである。(ユーモアはかつて世界に存在せず、ユダヤ人がはじめた概念だと言われる。ホロコースト中で彼等は虐殺や悲劇をユーモアに変換し生き延びたのである)

「美醜」は似顔絵イラストや肖像画に欠かせない概念である。これが時として残酷な悲劇をもたらす。現在日本でいえば、モテ、非モテ、という境界が例に挙げられる。上級市民、下級市民とも言う。女子でいうと「美醜」こそ第一。美しいかブスか。かわいいかブサイクか、若いか老いているかが女性の人生を左右するバイアスである(あった)ことは言うまでもない。

しかし、マツコの言にあるように、美醜を第一とする世界のいかに下劣ことか。美醜の差も諷刺でもってすれば笑うことができ、客観性が生じ、前むきになれる。そのようなユーモアのない世界は恐怖と争いしかもたらさない。

大真面目なユーモアの効かないメンタリティのなんと恐ろしいことか。俺を批判しやがった!と恫喝を武器にする人には一遍の思想や知性を感じない。知性なきところにユーモアはない。

ナンシー関さんにあるユーモア、諷刺の精神を受け継いだのがマツコデラックスだとしたら、いまや恫喝により批判精神が封じ込められる危機が来ている。余裕のない社会だから、これからも単純な動物的な暴力的恫喝的な人が出てきて民衆を扇動するだろう。大戦前の大正時代とも似ている。誰でもいい、引きずり下ろす対象を求め、スケープゴートやサンドバックを求める風潮。弱者ナショナリズムが台頭する。

諷刺批判表現を委縮させるような動きにはNOと言おう。

辛いときは記憶スケッチをして笑い飛ばそう。いやマジおもろいからさ。

ナンシー関の記憶スケッチアカデミー (角川文庫)

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