解散なんてしません
「SMAPがついに解散!」とNHKまで騒いでいたその裏で映画「日本でいちばん長い日」で老首相が「解散しません」とつぶやいていました。
第二次世界大戦の終戦時、第42代内閣総理大臣、鈴木貫太郎。
1967年放映時の「日本でいちばん長い日」では笠智衆さん。昨日放映された最新リメイク版では山崎努さんが鈴木総理を演じておられました。
内閣を総辞職しろ!解散しろ!と何度詰められても、シレッとして淡々と
解散しません。この内閣ですべてケリを付けて終わります
と言ってました。
眼のイッてしまった声高なテロリストとは反対の、静かな口調が印象的でした。そう、嘘つきは気焔を吐き騒がしい、そうでない人は静かに淡々と実行するのです。
鈴木貫太郎首相は里見祐介首相臨時代理のモデル
「シン・ゴジラ」にある首相が出てきました。
いかにも古いタイプの老政治家。平泉成さん演じる里見祐介氏です。
ゴジラによって当時政権の内閣の首相を含む大臣全員が突然死んだ。急遽、白羽の矢があたり臨時に首相となったのが、里見さん。単に外遊して生きてたという設定の大臣だった人です。
「日本でいちばん長い日」の鈴木貫太郎首相と共通点が多いことに誰もが気付いたはずです。
●一見、頼りない、事なかれ主義、やる気のない感じ
●日本の最大の危機的状況。誰も引き受けたがらない首相の任
●しかし淡々とこなし、各所に頭を下げ、地味に根回しをする
●ことが終わったら一斉に責任を取って総辞職
鈴木貫太郎と里見祐介も辞職時、まったく同じようなセリフを言ってました。
「自分の役割はこの災害(戦争)を自分の代で終わらせる、ケリをつける、老人は去るのみ、あとは若い人がどうぞ」
という意味の言葉でした。「シン・ゴジラ」の里見祐介首相代理というキャラクターはあきらかに鈴木貫太郎をモデルに作られたのです。
延々と続く大量の会議シーン、高圧的な世界の強者であるアメリカに蹂躙され振り回されるのも、この二つの映画の共通点。「シン・ゴジラ」は”戦後のねじれ”に向き合った映画です。加藤典洋をはじめとする団塊世代の「戦後のねじれ」思想が変節を迎える、ポストモダンが終わろうとしているのです。
一見弱いおじいちゃんがカッコいい!
里見さんは、最初は国の急務に、ラーメンが伸びるか伸びないか、ということを気にする無能そのもの。しかし、いつしかあれ?この人よくやってるすごいな、という風になり、最後には、本気で静にことに当たる、素晴らしき老兵という印象に代わりました。
「日本でいちばん長い日」の鈴木首相も一見頼りない弱腰のおじいちゃんだけど、譲らないところは譲らない、権力にしがみつかずことが終わったらすぐ解散するという人柄です。
この二人がなぜ清々しく気持ちいいかというと
引き際が早かったからです。
「老兵は去るのみ」と自分の役目をしっかりと終え、さっさと辞めたからです。
高齢で有能・知恵があったからではありません。
老人がなぜ嫌われるかというとそこを勘違いして、引き際が悪く、若者の新しい試みを邪魔をし、既得権にしがみつくからです。(あのオリンピック関連の森氏が嫌われるのはもちろん、いつまでも引かないからです)
つまり、里見首相も鈴木首相も二人とも引き際を知っていた。地味でヒョウヒョウとして無欲で無能のような振りをしながら、淡々とことにあたり、自分の役目を知っていた、というところに美徳とヒーロー性があるのでした。
老人vs若者の映画
この「日本でいちばん長い日」と「シン・ゴジラ」は両方とも、世代間対立の映画です。
年寄、老人は引き際が一番大事です。日本は和を重んじる反面ことなかれ主義と同調圧力が強い。それは平和な時代ならいいのですが、何か災害があったり強烈なグローバリズムに直面したとき対処できない。変わるべきときに変われない。
上の世代が引かないからです。
インベスターzという漫画に
地動説が天動説に取ってかわることができたのは年寄が考えを変えたからではない、100年たって死んだからだ
という衝撃的な台詞があります。
そう、つまり人間に染みついた古い考え方は変わることがない、年寄が死ななくては世の中は変わらないんです。
ニッポンが変わることが出来たのは外部者のおせっかいがあったから
明治維新、第二次大戦後に日本が飛躍的に成長できたのは、戦争により、年寄が一斉に退去したからです。政府の全ての首をすげ変えることができたからです。
それも悲しいことに自分たちで変わるべきだと自発的に考えて変わったわけでなく、黒船来襲やアメリカにより国土を焼かれてはじめてそれがなされたわけです。
なんかないと、いや、何かあっても、ゴジラが来ようとも、年寄たちは、じ~と安全な場所で、まだいいよね?ぜんぜん大丈夫、と座り込んでコッテ牛みたいに動かない。
日本人は自分で自分を変える力がない。
女の私は戦争に負けてよかったとも思うことがある
私は、ひどいかもしれないけど、敗戦してよかったとも思っています。私は女性だからです。
アメリカがやってきて強引に全てを変えることができた。政治の上層部を刷新した。農地改革がなされ小作人がいなくなり農村が貧困地獄から逃れることができた、女性も男性と平等の「人間」であると憲法で定められ、女性にも選挙権が与えられたからです。
そう「与えられた」。受け身です。日本女性は選挙権を自ら主体的に「獲得した」のではないと自覚しています。
現在の私を含め、依頼心の強い日本女性のメンタリティでは戦争に負けもしないかぎり「選挙権」などなかったでしょう。自分で勝ち取らなかった選挙権だからこれほどないがしろにしてしまうのです。アメリカがこなかったら日本女性はあのまんま。「日本でいちばん長い日」で描かれていた、ただただ夫や子供が死んでいくのを耐えていた良き女性のまま、被害者意識だけを募らせてじっとりと過ごしていたに違いないのです。私などは農家の小作の娘に生まれ、文字を覚えることもなく、借金の片に売られ、奉公人になっていたでしょう。スターバックスで休日コーヒーを飲んだりしているわけがありません。
今の日本もやはり変われないのか
今の日本の閉そく感は、この変わらなさ加減にあると思います。
たぶんこれからも高齢者は健康なまま老いていき、日本の大部分を占め、政治も経済も彼らにおもねるまま、古い考えが蔓延したまま恒常的に変わらないという点が大きいと思うのです。
私は、何度も団塊の世代に対する私怨を記事にして、滅びよあの世代と書いてますが、何も本当に滅びよと思っているわけではありません。(実際に迷惑をこうむっている渦中にはタヒねと中指を建てまくりますが)本当に滅びてくれる人達ならそんなことは書きませんw この日本史上かつてない未曾有の自体になりつつあります。たぶん彼らは21世紀の最大級のゴジラとなるでしょう。健康な高齢者がどんどん人口大部分を占め高額の医療費を使い生き続け、左翼ルサンチマンをまき散らしながら社会に寄生する。働かず年金をもらえるお暇で楽しい立場のままあと10年は選挙にドラを鳴らし参加しまくります。税金を使うだけの人間の選挙権は剥奪とはいかないまでも1/2に減らした方がいいと本気で思います。
そういうことを言うと「いずれあなたもいく道なのに」などという爺さん婆さんが必ずいます。確かに私も老人になるでしょう。しかしそれは毒人間が必ずいう詭弁です。社会に甘え火炎瓶を投げていた団塊世代とその他の世代は一緒じゃないですよ。
デモ好きの団塊の世代こそ、テロリストそのものだと思います。
彼らが暇で寂しくて、ドラを鳴らし道で働く人の足を止め、カルト政治思想を押し付けてまわるのは害悪としか言いようがありません。あの集団に今働いている現役世代がほとんど見受けられない。老人ばかりです。共感して票を入れる人がどれほどいるのでしょう?
スクラップアンドビルド
長谷川博己さん演じる主人公の官僚、内閣官房副長官・矢口蘭堂が最後に言いました。
scrap and buildがこの国の個性である。日本は何度でも立ち上がる
なるほど。日本は全てを奪い去られ、そのたびに、新しく不死鳥のように生まれ変わる国家です。「シン・ゴジラ」は震災や少子高齢化・貧困格差で閉塞した日本を励ますコンテンツです。
閉そく感を壊すのは私をはじめとする中高年世代の役目でしょう、そして作るのは若者です。壊したら権利を主張せずに引かねばなりません。壊すまでの積極的行動は取れなくても、次世代の邪魔をしないこと、引きぎわが肝心です。
壊れたら作ればいい、という単純なことではない。
問題なのはタイミングなのだと思います。
どこでどう壊すか。
いつ引いて、どう損切りできるか、そのタイミングを誤るとscrap and buildが単なるscrapになってしまいます。
「日本でいちばん長い日」の若き陸軍将校たちは本土決戦というscrapを望み
昭和天皇と鈴木内閣はポツダム宣言受諾、無条件降伏というscrapが最善だと考えた。
その違いの世代間葛藤にフォーカスし、「日本でいちばん長い日」と「シン・ゴジラ」という人間ドラマが作られたのです。
鈴木内閣は、スクラップのタイミングを命がけで見測り、実行したのです。あそこで終戦を迎えなければ、焦土と化した日本に米ソが押し入り東西に分配されていたことでしょう8月15日に終戦を迎えたから日本はビルドされたわけです。
歴史のスクラップには人柱がいる。西郷隆盛が武士たちの人柱として最後に闘い死んだように、誰かが陸軍の気持ちを救い上げ、腹を切らなくてはならない。その腹切りの人柱が陸軍大臣、阿南惟です。自殺=スクラップのタイミングを慎重に計り去った阿南惟幾。その切腹シーンは「日本でいちばん長い日」のクライマックスです。
現時刻、8月15日12時。ちょうど玉音が流れた時間です。